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豊臣秀吉の名言

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)は、戦国時代~安土桃山時代の日本の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。 尾張中村の木下弥右衛門の子。幼名は日吉丸(ひよしまる)。木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と称した。松下之綱の下男ついで織田信長に仕え、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現し、羽柴 藤吉郎秀吉(はしば とうきちろうひでよし)に改名した。中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると急ぎ毛利輝元と和解し京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った。柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継の地位を固めた。大坂城を本拠とし、小牧・長久手の戦いで徳川家康を臣従させ、長宗我部元親を破り四国を平定した。関白・太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜って以降の本名は、 羽柴豊臣朝臣藤吉郎秀吉(はしばとよとみのあそんとうきちろうひでよし)と名乗る。 島津義久を破り九州を平定し、政権を確立、刀狩令や海賊停止令を発した。北条氏を破り、関東や奥羽を平定し、天下統一を果たした。太閤検地や刀狩令・惣無事令・石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。その強力な権力・財政基盤をもとに聚楽第や方広寺大仏(京の大仏)などの豪華絢爛な建造物の造立にも着手し、桃山文化の発展に貢献した。晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵したが(文禄・慶長の役)、その最中に、嗣子・秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。

鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス。
人と物争うべからず、人に心をゆるすべからず。
この黄金の輝きも 茶の一服に勝るものかな
ひそかにわが身の目付に頼みおき、時々異見を承わり、わが身の善悪を聞きて、万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり。
金を貯め込むのは良き士を牢に押し込むに等しい
いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。
人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる
猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・大閤、これもまた皆が嫌がるところでの我慢があったればこそ
戦は六、七分の勝ちを十分とする。
主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。
降参した者は、それ以上責めてはいけない
敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ
いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。
主人は無理を言うなる者と知れ
信長公は勇将なり 良将にあらず
何事もつくづくと思い出すべきではない
やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。
世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う
負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
露と落ち露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢
夢は大きいほど良いと言うが、わしはすぐ手の届くことを言っている

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