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王陽明の名言

王 陽明(おう ようめい、成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日))は、中国明代の儒学者・思想家・高級官僚・武将。思想家として当時の朱子学に対して批判的であり更に発展させた。聖人になるにあたり朱熹とは格物致知への解釈が異なり、書物(四書五経を代表とする)を通し物事を窮めることによって理を得ていくのではなく、理は元来より自分自身に備わっており物事の探究の結果得られるものではないとし、陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。
山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。

人の才能や気性はみな同じということはない。立派な人は人を型にはめたりしない。進取の気性に富む人はそれを生かし、律儀な人はその頑なな性格をいかして立派な人物に育てるのがよい
聖人は、天地万物を一つのものとみて、生物全てを自分の兄弟か子供と思い、教え養う。全ての人類と私とは別のものではなく全て一つのものである。
人を責めることをやめて、自分の心を正すことが大事だ。
知識をつけることは、行動の始まり。行動することは、知識を完成させること。行わなければ、知っているとは言えない。知っていても、行わなければ、知らないのと同じである。
人はあらかじめ善悪の判断の中にあるのではなく、心の本体は無善無悪。その混沌からほとばしるものこそが真の善である。
聖人を信じて教えに素直に従うのもいいことだが、本来持っている善心に従うほうがよい。
人生の大病は、「傲」(ごう)の一字に尽きる。
本来持っている善心にしたがって行動すればよい。そうすれば善は残り、悪は去る。
学問は自分の心の中に刻まれるのが第一義である。もし自分の心に照らし合せて、誤りだと思ったら、たとえ孔子の言葉であろうとも、それを正しいとしてはいけない。
その人がどういうものを好むかで、人を判断しなさい。
ただ善を行うことに心を一つにし、死か生か短命か長命かといったことに関しては、我が身を修めて天命を待つだけだ
人は皆聖人である。しかし、時間が経つにつれ私欲が生じ、物欲が、他人と自分とを一体のものだと考えられなくなる。だから本来持っている聖人の心に戻るために、私欲に打ち克たなければならない
反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。
実行の中にのみ学問がある。行動しなければ学問ではない。
君子は行いをもって言い、小人は舌をもって言う。
人はまず食べたいと欲する心があって、その後に実際に食べてみるという行動を起こしてから味を知る。食べたいと欲する心は意思であり、行動のはじめである
修行は一進一退するのが当然である。他人の非難や嘲笑、または栄誉に関わりなく私欲を取り除き、本来持っている善心に沿って生きる修行を怠らなければ、必ず実力を得るようになる
友に対するに、相手に学ぶようにつきあえば成長が得られるが、相手の上に立とうとするのは悪いことになるだけだ。
仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。
ただ静かに心を養おうとしても、事が起これば、心は外の力で圧倒される。人は常に実際に起こる物事の上で、自己を磨くべきだ。そうすることで心が確立する。

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