社会 禅僧

一休宗純の名言

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。
仏といふも、さとるといふも、名はかはれども、おなじみちなり。我が本心をさとる人を、すなはち、仏となづくるなり。

大丈夫だ。心配するな。なんとかなる。
今日ほめて明日わるく言う人の口。泣くも笑うも嘘の世の中
世の中は起きて稼いで寝て食って、後は死ぬを待つばかりなり
日々なすべき正しいことは、弓を引いて「心中の賊」を射落とすこと。今の世は仏と魔物が混ざり合っている
袈裟が有り難く見えるのは、在家の他力本願
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
じぶんは この世とあの世のあいだで、一休みしているだけなのだから、なにがあろうとわが道をいく、
むさぼりと怒り・恨みの煩悩の根本は、言ってもしょうがないことを言って嘆くことにある
世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ
世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ
私の怒りや恨みや欲情も、出家する20年前と同じく今でもなくならない。汚れた俗世間から超越し一切の煩悩を断ち切ったはずなのだが、美人を見れば胸が高鳴ってどうしようもない。
自分の人生は、自分一代のものだ
悟りなどないということを悟った
私が詩づくりに励むのは自分への執着が強く、自分を偉そうに見せようとする煩悩があるからだ。注意しなければいけない
ては、死ぬるなり。釈迦も達磨も、猫も杓子も
世の中の生死の道に連れはなし。ただ寂しくも独死独来
有露地より無露地へかえる一休み 風吹けば吹け 雨降らば降れ
南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる
花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの
わざわいというものは、元々福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄に過ぎないと信じる

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